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■ minolta HI-MATIC ミノルタは国産初のレバー式巻上機構採用の35mmレンズシャッターカメラ・ミノルタメモを1949年に発売しました。その後はミノルタAやA2など大衆路線である程度のシェアを占めていましたが、1950年代後半には神武景気も落ち着いてきてカメラ業界も不況に陥りました。その頃ミノルタはレンズ交換式レンズシャッター機・スーパーAやレンズシャッターで1/2000、1/3000秒以上を出したVシリーズ(V2、V3)と相次いで高性能機が登場させたものの大きな販売実績を残すところまでは至らず、経営的にも非常に辛い時期で社員数の1/5もの希望退職者募集も行いました。「なぜ売れないのか?」にミノルタは悩みました。そこで出した答が「カメラの知識がない、だれでも簡単に写せるカメラ」を作ることです。プログラムシャッターの先駆者・追針式メーター連動式のユニオマットを発売、これは売れました。1960年に入ると他社でも自動露光(当時はEE=Electric Eyeと呼んでいた)カメラを次々発売しまさに激戦模様になってきました。ミノルタが次に出したユニオマットの上位機種にあたるのがハイマチックです。 初代ハイマチックのデザインは幻の試作機スカイ、ミノルタ16なども担当した白松 正 氏、スクエアながら流麗なシルエット、銀ベースにグレーの人口皮革貼り、前面に設けられたシャッターレバーなど近代的で整理されたとても美しいモデルです。 このハイマチックの北米輸出版がアンスコ(米国の販社)・オートセット(Rokkor PF 45mm2.8)で、1962年2月にアメリカが始めて有人宇宙船フレンドシップ7用の映像記録カメラとして採用されています。世界中の25機種のカメラの中から選ばれた最大の理由は、絞り羽も兼ねたプログラムシャッターという簡易な撮影方法だそうです。実際機内に持ち込まれたハイマチックは、内部のいたるところに穴を開けて軽量化をはかり、船内で飛行士のグレン中佐が操作しやすいような改良(片手操作ができるよう固定焦点と特殊なフレームを装着するなど)大幅な改良が行われれていました。現在はスミソニアン博物館に飾ってあるそうで、機会があれば見てみたいなぁと思っています。 さて、このフレンドシップ7の成功が全米のみならず国内外でミノルタの名前を大きく浸透することにもつながり、翌年発売された後継機はハイマチック7と名づけられ世界中で売れに売れ、ミノルタの経営も順調に戻りつつありました。 しかし今度は東京五輪不況・・・高性能で大口径レンズを搭載したハイマチック9や11の成績は芳しくありませんでした。また時代はオリンパス Penシリーズなどコンパクトなカメラに移行していきます。そこでハイマチックCやE、Fという小型系統を開発、これがまた国内外共アホほど売れて、20年間にわたって次々とハイマチックシリーズは生み出され、空前のロングネームとなりました。 しかしオートフォーカス時代まで生き残ったハイマチックシリーズもさすがに色あせてきたのか、C.I.導入の翌年に出たハイマチックAF2-MDで幕を閉じることになりました。余談ですが、松田聖子をキャラクターに採用し、世界初のおしゃべりするカメラ・AF-Sトークマンもこのハイマチックシリーズの流れを汲むモデルです。 |
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参考資料:日本カメラ、クラシックカメラ専科 2001.10.13作成 / 2003.1.15更新 にしきん(C)
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